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「クリームソーダ」
クリームソーダが、嫌いだ。
嫌いだと思っているのに、喫茶店とかカフェとかのメニューにあると、決まって頼む。その嫌いだという気持ちを確かめるように、毎度まいど。
「嫌い」と「好き」は、紙一重だと私は思う。
その日の風の吹く方向によって、まったく同じ気持ちに対して感じ方が異なるものなのではないか?と、思っている。ただ、そんなことを考えたところで、私には本当にどうでもいい。
とにかく、クリームソーダを頼んでしまう。
コーヒーや紅茶の注文の間に、たったひとつのクリームソーダ。緑色の海に白い氷山が一つ浮かんでいて、ヒヤリと冷気をこぼしている。喫茶店が社交場であるならば、ダークカラーのスーツやシックなドレスで集う紳士淑女の中に紛れ込んだ未成年のカラードレスの女というような状況で、思わず私はその異様さに微笑んだ。
場から浮いている、と思った。
スプーンでアイスを食べると、口の中には喜びがほとばしる。とても甘い、そして冷たい。
その後に、パチパチとはじけるソーダを飲むと、まろやかな甘みとはじける感覚との融合が更に喜びを増幅させる。カラードレスの女が、踊りはじけている。美味しい。
「またクリームソーダ?飽きないね」
「美味しいから」
「喫茶店なら、ソイフォンで入れたコーヒーでしょ」
これが嫌なのだ。
今、カラードレスの女と私は美味さのダンスにふけっているのに、待ち合わせに合流した友人から途端に水を差されて現実に戻る。向かいの友人はアイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れてストローでかき混ぜた。
私はその手元を見ながら、言い訳の言葉をさがす。
「いーじゃん、何頼んでも。大人だもの」
「まあね。ちょっといい歳の大人がクリームソーダにはしゃぐのもサムイけど」
「クリームソーダ好きなの」
「そう」
友人はすぐに私の選択に興味をなくしてくれた。
私はクリームソーダを選んだ罪悪感を残しつつも、次の話題に切り替えた。アイスクリームの氷山が、話している間に瓦解していく。そのうちダンスも踊らなくなったら、緑色のソーダは白く濁ってアイスクリームと一体化していってしまう。
クリームソーダが嫌いだ。
私と隣にいると、途端に皆に笑われてしまうのが、可哀想だ。いい歳の大人と、未成年のカラードレスの女は釣りあわないと皆が言う。そんな言いがかりを純粋で鮮やかなクリームソーダのせいにするのも、とても恥ずかしい。
クリームソーダが嫌いだ。
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「プリン」
プリンが大好きだ。
子供でも大人でも、老若男女誰であっても良いと思う。好きなものを主張すれば良いと私は思う。
「これください」
「あ、ちょっと、なに豪華なもの頼んでんの」
「アンタも好きなん頼めば良いやん」
ふさわしいだとか、ふさわしくないだとか、いったい誰が決めたわけ。
私は喫茶店でプリンアラモードの一番豪華なフルーツが盛り付けられたものを指差した。加えて、店員も一般的な受け答えで私のプリンアラモードの注文を通す。ほら、別におかしいことではない。
友人はコーヒーにケーキをつけていたが、私はすでに自分のプリンに向けて気持ちを作るのに夢中だ。
「毎回プリンと名の付くものに食いつくわね、他に好きなものないの?」
「小さい頃から好きだから、そんなん考えたことないわ」
「思考が子供っぽい」
「プリン好きだろうが、ハンバーグとかオムライスが好きだろうがどうでもいいじゃない、子供とか大人とか関係あんの?」
私は友人の口にするラズベリーとホワイトチョコのムースのシンプルな見た目を睨みつけた。その大人っぽい見た目に騙されてなるものか、という気持ちである。そっちだって、ケーキじゃないかと。
友人は私の発言に、「大人げない」とコメントするとコーヒーをすすった。
「プリン美味しいじゃん、大人になって大きくなっちゃったけど、それでもこの味が子供のころから好きでさ。ほっとする感じ」
「まあね。しかも、そんなにフルーツもあるし、美味しそう」
「あげないから」
「ケチねぇ」
プリンはいつも誰にでも愛される存在だから、カフェのメニューに載っている。プリンは常に、万人に両手を広げてウェルカムの姿勢を崩さない。
それは同じように愛されるコーヒーだって紅茶だって同じこと。
男だから女だから、子供だから大人だからとかいう外野の言いがかりは、勝手に言わせておけ。プリンは、そんなことで拒んだりしない。
私はクリームとプリンを口に運び、まろやかな甘みに笑顔になった。フルーツの酸味と甘みで変化を加えつつも、主人公のプリンの安定感。すごく、美味しい。
私を笑顔に変えてくれる魔法の食べ物。ずっとそばに置いておきたい食べ物。
「んー!美味しい!」
プリンが大好きだ。
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